正覚院の草創と沿革
開祖 | 弘法大師空海 |
---|---|
宗派 | 真言宗 智山派 |
本尊 |
|
本堂
大同2年弘法大師空海上人奥州留錫の時開山された。
本尊は大日如来、阿弥陀如来、不動明王の三体を安置し、秘佛と称して日々老若男女を集め布教説法し居りしが、天正17年、二階堂家と伊達家との戦いにより、同年10月26日夜半兵火に焼かれた。
飯塚より現在の花園に移り寛永20年3月6日再興なる。
新寺として山号寺号院号の三号を本山より賜り檀信徒の信仰の中心、文化の中心として栄えたが本堂より出火し、堂塔伽藍すべて焼失する。
時に文政13年8月21日のよるの事なり。
しかしながら祖信徒共々協力し合い、機ようやく熟し天保10年8月21日再建復興する。しかしまたも思わぬ暴風雨にあい、明治35年9月27日堂宇山内鐘楼ことごとく倒潰する。
檀信徒早速復興に起ち上がり明治36年6月15日再度旧観に復す。
観音堂
観音堂は亨保年間ごろに時の住職「観亨」によって建てられた。
中に「七佛観音」と称し「千手観音」を中心として「聖観音(しょうかんのん)」「馬頭観音(ばとうかんのん)」「十一面観音(じゅういちめんかんのん)」「准胝観音(じゅんていかんのん)」「如意輪観音(にょいりんかんのん)」「不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)」の七体の観音像が祭られている。
この地域の信仰と文化の中心として重大な役をはたし、その間幾度かの補修等があり、近年観音堂の屋根、周囲の石垣もくずれ破損も堪だしい状態でありましたが平成3年3月17日真言宗中興の祖「興教大師覚鑁上人」八百五十年御遠忌事業と合わせて観音堂の屋根ならびにその廻りが改修された。
真言宗智山派について
仏教と真言宗
仏教は、今から2500年ほど前にインドでお釈迦さまが悟りを開かれ仏陀となられたことを出発点としています。ですから仏教とは、その「仏陀の教え」ということになります。またその教えは、修行によって人間の苦しみを解決する教えでもあります。その意味では、仏教とは「仏陀になるための教え」でもあります。
インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(北伝仏教)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来しました。またインドからセイロン(現スリランカ)に伝わった仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへ伝わるようになります(南伝仏教)。
このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも特に密教であるといわれます。密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味ですが、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、それが7世紀ごろに段々と体系化され、8世紀には中国やチベットに伝わったといわれます。そしてこの教えが弘法大師により日本に伝えられ、真言宗となるのです。
真言宗と宗祖・弘法大師
弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学します。大学では中国の哲学、思想を学びますが、やがて立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになりました。
そして24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えをまとめた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。そしてある夜、大和国久米寺の東塔の下に仏教の究極の教えである密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称は『大日経』)があることを夢で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいました。しかし『大日経』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にはいません。そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心したのです。
延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは九州長崎の松浦郡田の浦から遣唐使船に乗り長安をめざします。海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出帆して半年後、やっと唐の都・長安に到着します。
長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐりあいます。恵果阿闍梨は自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、ここに、お大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝するのです。
帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。
そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されるのです。
真言宗と中興の祖・興教大師
弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。
興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1126)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。
その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。
興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。真言宗智山派の寺院で、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えするのはそのためです。
真言宗智山派と総本山智積院
私たちの総本山は智積院(ちしゃくいん)といい、京都の東山七条(ひがしやましちじょう)にあります。智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長盛法印により創建された寺院でした。
興教大師亡き後の根来山は、学徳に秀でた頼瑜僧正(らいゆそうじょう 1226-1304)により大伝法院(だいでんぼういん)や密厳院(みつごんいん)が高野山から移築されいよいよ発展し、天正(てんしょう 1573~)年間には坊舎が2000余も立ち並んだといわれ、政治的にも経済的にも大勢力となります。しかし、この勢力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。秀吉は、天正13年(1585)、根来山を攻めると、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰してしまいます。この時、智積院の能化であった玄宥(げんゆう)僧正は弟子とともに難を逃れますが、安住の地が見つからないまま、智積院再興の志をもちながら各地を流転したのでした。やっと安住の地を得たのはその16年後のこと。慶長(けいちょう)6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)を再興したのでした。
智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになります。
しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900)、真言宗智山派の総本山となったのです。山号を五百佛山(いおぶさん)寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。
こうして弘法大師の教えは高野山から興教大師の根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられ、現在、智積院は全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所、総祈願所となっています。